植生からの蒸発散を考えるとき、ふつうは気孔抵抗と空気力学的抵抗で、気孔内外を結びつける。その際、気孔内部の蒸気圧は葉の温度で飽和していると考える。ところが、一般に葉の水ポテンシャルは負圧であり、そのばあい、物理的に考えれば飽和水蒸気圧はその温度での飽和水蒸気圧よりも低くなるはずである。例えて言うならば葉の内部の水は毛管上昇の上端にあたる。毛管の上端では水面は凹んでおり、壁面と液面の界面エネルギー(表面張力)のつりあいによって重力に打ち勝って水を高い位置に引き上げている。凹んだ水面では水分子はまわりからの分子間力がフラットな液面のときよりも過剰に働くために蒸発しにくい。
そのような効果が、蒸発散の算定においてどのていどの影響を持つのかということに以前から素朴な興味を抱いていたので、今回、計算してみた。 まず、バルクの水とそれに水蒸気が平衡している系1を考え、水の化学ポテンシャルをμ1L、水蒸気の化学ポテンシャルをμ1Vとし、下記のように書く: μ1L = UL + P1 VL − T SL μ1V = UV + P1VV1 − TSV1 次に、表面張力によってある圧力ΔPが付与された水と、それに平衡状態にある水蒸気で構成される系2を考え、各化学ポテンシャルは、 μ2L = UL +(P2 + ΔP)VL − TSL μ2V = UV + P2VV2 − TSV2 となる。系1と系2は同じ温度と考える。気体も液体も内部エネルギーは温度のみで決まるから、ULとUVは系1と系2で変わらない。液体のエントロピーも、系1と系2では変わらない。平衡状態の条件から、μ1L=μ1V、μ2L=μ2Vである。 さて,気体部分の系1と系2の化学ポテンシャルの差は、 μ2V−μ1V=P2VV2−P1VL−T(SV2− SV1) となる。しかしここで、単位モル数あたりの気体のPVは温度のみに依存することを考えるとPVの項はキャンセルし、結局、 μ2V−μ1V=T(SV2− SV1) となる。気体のエントロピーの差は、等温変化を考えて、 dS = dQ / T = P dV / T = k dV / V となり、積分すると、 SV2− SV1=k ln VV2 / VL = k ln P1 / P2 となり、結局、系1と系2の化学ポテンシャルの差は、 μ2V−μ1V=k T ln P1 / P2 となる。これは水蒸気の話だが、平衡状態にあるので水の化学ポテンシャルの差はこれに等しいはずである: μ2V−μ1V=μ2L−μ1L ところで、 μ2L−μ1L=(P2 + ΔP)VL−P1VL =(P2−P1)VL +ΔP VL であるから、結局、 μ2V−μ1V=μ2L−μ1L=k T ln P1 / P2 =(P2−P1)VL +ΔP VL となる。ここでP2−P1=dPとかいて対数を展開すれば、 −kT dP / P = dP VL +ΔP VL 従って、 (kT / P VL - 1)dP = ΔP P VL >> kTなので、左辺の-1は無視して、結局、 dP = ΔP P VL / kT となる。 さて、例えば植物の気孔が水ストレスの為に完全に閉じるのは、およそ2.3MPa程度の負圧による。それをΔPとして上式を見積もると、 dP/P = ΔPVL / kT=2.3*106*18*10-6 /(8.31*300)= 0.017 すなわち、飽和水蒸気圧の低下はたかだか2%ということになる。 ちなみに、凹んだ液面で考えると、曲率半径をrとすれば、ΔP = 2σ/ r となる。ここでσは水の表面張力で、約0.07N/mである。すると、2.3MPaを実現する曲率半径は、 2*0.07/2300000 = 6*10-8 となり、0.06ミクロン程度となる。 上記の理論は、液面が凸のとき、つまり微小水滴の飽和水蒸気圧と全く同じ問題である。ためしに小倉義光「一般気象学」第2版81ページ図4.2を参照すると、半径0.06ミクロン程度の水滴に平衡する水蒸気の相対湿度は2%程度の過飽和となっているが、これは符合こそ違うが上記の-2.3MPaの負圧による飽和水蒸気圧の低下と同じことである。 結論: 負圧が水蒸気圧に与える影響は微小(数%のオーダー)。