なぜ数学を勉強するのか?

2006/07/17 改訂; 2004/09/18 西田顕郎

人間は進んで苦しい体験をしようとはしない

 子供に「好きなものを好きなだけ食べろ」と言えばチョコレートやカレーライスばかりをえんえんと食べ続けて結局は健康な成長ができないのと同様に、学生さんに「自主的に勉強せよ」と言えば、歯ごたえの無い概説・評論的なことばかり選んでしまい、結局は知的に脆弱なまま卒業してしまう人が多いようです。別に「今の学生さんは子供だ」というわけではなく、人間とはそういうものです。よほど確固とした動機がなければ、苦しい道を進んで選ぶのは大変なことなのです。

 しかしそれでは学生さんの将来・日本の将来・人類の将来が不安であるわけで、やはり大学では、学生さんに、厚みのある知的経験・知的成長をしてもらわねばなりません。

大学での勉強は無駄なのか

 では学生さんは大学で何をどう勉強するのが良いのか。

 大学で学ぶことは、大学を出てからはほとんど役に立ちません。これは多くの人が断言するところですし、実際(私自身は大学からほとんど離れたことが無いので体験的には言えないのですが)、私の友人もほとんどがそう言います。

 ならば大学での勉強は全くの無駄なのかというと、そうでもありません。私の父は地方で技術系のコンサルタントをしていますが、どんな大学でも、やはり4年間を大学で過ごした若者は、そうでない若者に比べて、ものごとの捉え方に余裕があって柔軟だ、と言います。

 ここから類推すると、大学で獲得すべき知的能力とは、ものごとの捉え方であると考えられます。既知・未知を問わず、様々な対象を、自分の力と自分の言葉で、観察・整理・類推・体系化・帰納・演繹・抽象化・評価する能力です。

 もっとも父の発言は、彼自身が大卒であることに起因した、自己肯定の心理が働いている可能性も否定できませんので、別の例を挙げましょう。私の友人の中で、ただ一人だけ、「自分が大学で学んだことがこんなに社会で役立つとは思いもしなかった」と言った者がいます。彼は数学科の学部と修士課程を卒業し、メーカーのシステム技術者(SE)になりました。

なぜ数学だけが役にたつのか

 SEの仕事にもいろいろあるので、数学の知識が直接に必要な分野もそうでない分野もあるでしょう。しかし、仕事に「直接役に立つ」ということにたいして、他の多くの学部・学科の卒業生が、多くの職種に対して否定的であるのに対し、彼のこの肯定的な断言は印象的です。数学という分野は何か特殊なものをもっているのでしょうか。

 四則演算程度の数学は、買い物や貯蓄やローンに必要なのは当然ですが、大学で専門的に学ぶ数学は、そんなものからは遥か遠くに離れて、完全に抽象論理の世界での知的活動であり、数学とは浮世離れした学問の代名詞のように言われることもあります。しかしながら、前述した、「ものを捉える能力」のうち、観察と評価を除く全ての能力を鍛える場として、数学以上に厳しい分野はありません。

 別の例ですが、私の叔父はメーカーのエンジニアを長くやっていますが、私が大学に入ったばかりのころ、私に、「大学では数学と語学だけ勉強すれば十分だよ」と言いました。彼は職場で若い技術者を多く見て、数学の持つそういう教育機能を実感・痛感していたのでしょう。

 そんなに数学が素晴らしいなら、大学をぜんぶ数学科にしてしまえばいいじゃないか、ということになりますが、人には得手・不得手があるし、現実的な学問を推進・維持する必要も厳然として存在するので、そういうわけにいかないのは当然のことです。それに、数学だけでは、現実のものごとを「観察」したり、いろんな現実的な尺度で「評価」することができません。しかし、少なくとも、若者の教育機能としての数学は、やはり再評価されるべきではないでしょうか。

 数学は純粋論理であり抽象的思考ですから、それに対して「それが何なんだ」と思うのは人間の一般的な感情でしょう。その気持ちが数学の学習において障害になります。そこで数学が現実世界に対して直接的に機能する応用範囲である、物理学や情報科学を、数学と表裏一体で学ぶのが効果的です。物理学や情報科学自体が、現代の技術文明の不可欠な基盤でもありますし。しかし、強調したいのは、これらの学問は、学んだ内容が、直接そのまま、現場の応用に供するというものではないということです。あくまで、役立つのは「ものごとの捉え方」です。

 そう言ってしまうと、よく言われる「数学は論理的思考の訓練」というやつか、と思われてしまいますが、数学はそれだけではありません。数学が提供する個々の理論が、ものごとの解釈・説明に関して、非常に具体的かつ強力に働くこともあります。物理学とその周辺分野である気象学や工学ではそういう例が無数にあります。しかも面白いことに、全く別の現象と思われることに対してほとんど全くおなじ数学的な理論があてはまるということが多いのです。

 一例を挙げましょう。大学1年で学ぶ数学に線形代数学がありますが、その中で、対称行列の固有値問題と対角化があります。対称行列の固有値は必らず実数で、固有ベクトルは互いに直交するというやつです。その理論は、統計学で多変量解析、とくに主成分分析で中心的である一方、材料力学や土質工学、地震学などで出て来るひずみテンソルや応力テンソルの理論の中心でもあり、さらにまた、半導体設計などで必要な量子力学の基礎理論のベースでもあります。

 つまり、こうした数学理論をきっちり習得していれば、統計・地震・材料などという、全く異なる複数の分野の理論を楽に習得できます。逆に言えば、こういう数学を知らなければ、それらのいかなる分野の理論も理解できないのです。各分野を学習するとき、その本質的な理論の理解に必要な基礎学力を持たないのは致命的です。そのようなとき、何が起きるか?こちらを参照してください。

 数学の意味はまだあります。数学と物理学には、人間の通常の日常感覚ではまったく理解することも想像することもできない対象が現れます。分子や原子・電子といったミクロの世界の支配則である量子力学や、宇宙の構造を支配する相対性理論は高度に抽象化された数学で裏付けられています。そもそもこのような世界は我々の日常ではありませんから、日常感覚が通用しないのは当たり前で、実際、「宇宙は曲がった空間」だの、「状態とは無限次元の複素ベクトル空間」だのといった非日常的な数学理論でこれらは説明され、数学なしでは一歩たりとも前に進めないのです。つまり、人間の日常感覚というチープな経験では絶対に獲得することができないような想像力を、数学によって獲得することができるのです。

 このことは、若者に2つの非常に大事な教訓をたたき込むことになります。「我々が日常感覚で想像できることは世の中のごく一部である」という謙虚な姿勢と、「日常感覚で想像できないことでも、論理をたどれば理解できるし、それによって自分の想像力は日常を離れて飛躍できる」という自信です。

役に立つ学問は役に立たず、役に立たない学問が役に立つ

 数学とその周辺領域の基礎科学に対して、他の応用的な学問の多く、特に農学・工学といった応用科学は、具体的であるが故に、実用的に見えます。しかし、それらの学問の具体論が、学生さんの将来に対してほとんど直接的にも間接的にも役に立たないというのは、とても逆説的な現象です。役に立つ学問は役に立たず、役に立たない学問が役に立つのです。

 この逆説を解く鍵は、大学で学生さんが修める学問は、「実用のため(その日の食のため)の学問」ではなく、「教育のため(知的成長のため)の学問」であるという点です。ほとんどの学生さんは、製品の納期や現場の工程に追われて、「なんとか現在の目の前の技術的な問題を解消したい」と思って勉強しているわけではありません。数年後・十数年後に、社会の一部分でそのような情況に遭遇したときに解決策を見出したり、意志決定をするための能力を獲得するのが目標なのです。それには、具体的・個別的な技術知識は有効ではありません。なぜなら、技術の水準や世の中のニーズはものすごい速さで変わっているので、数年後・十数年後にも確実・直接に仕事に役立つ具体的技術知識などをあらかじめ見当づけることはとても難しいし、第一、人の人生とは、あらかじめ思い定めたようには行かないものであり、若いときの関心と、社会に出てからの仕事の対象がずれることなどはとてもよくあることだからです。

数学以外の学問の意味

 前にも書いたように、数学は「観察」とか「評価」までは教えてくれません。これらも論理を基盤に持ちますが、論理以外の部分も重要だからです。

 例えば植物を育てる場合、「観察」はとても大切な行為です。その作物が良い状態にあるのか、光・水・肥料はそれぞれ足りているか、次にいつごろ施肥や水やりをすれば良いか、そういうことを判断するのに、観察力はとても重要です。ものを設計・製造するときも、観察力は重要です。観察には、集中力や持続力、記憶力、判断力が必要です。観察を含めて、丁寧に誠実に、手を動かして勤勉に仕事をすることを学ぶには、現実のものを対象にした訓練が必要です。それには実験や観測といった要素の多い学問が有効です。

 「評価」については、人間社会の論理や価値観を知らねばできません。経済的な価値のみならず、信用や安全、連帯感、さらには芸術性や冒険心ということまで評価するには、人間に対する基本的な理解が必要です。これらを学ぶには、歴史や地理、文学、スポーツなどが必要です。

 しかし、強調したいのは、こういうことに対しても、数学のもつ論理性は重要だし不可欠であるということです。複雑な情況が入り組んでいるときに、背反する条件や価値観を論理的に整理することは、観察や評価そのものではありませんが、観察や評価にとって不可欠な論理操作です。

全人的な能力の訓練を

 自衛隊のテストパイロットをしていた人がいます。彼は、パイロットの現役時代は、雨の日も含めて毎日、朝と夕方に、10kmづつ走っていたと言います。そこで彼に、「飛行機のパイロットはそうやって厳しい肉体訓練をするようですが、実際は飛行機の中では機械を操作するだけですよね。強力なGがかかったりとか肉体へのストレスがあるのはわかりますが、それにしてもなぜそこまで体を鍛えねばならないのですか?」と聞きました。すると彼は、「肉体を鍛えると、思考と行動が速く連動するようになって、状況に対して肉体が何かしたい、と積極的に反応するようになるのです」と説明してくれました。これはとても示唆的な言葉です。

 我々が何かをなすときに、その仕事で直接要求される知識や技能は限定的であっても、それを高い品質で行うには、全人的な能力、すなわち人としてのトータルの能力が必要なのです。部屋のそうじを例にとっても、掃除機をかける・ほうきをはくといった行為は、手足を使えるなら誰でもできますが、塵やほこりの性質を考えて、たまりやすい場所を認識し、手順を考えて、効率良く行うには、観察力や判断力が必要です。部屋の中のものの価値や置き場所の意味を理解しなければ、大切なものを壊したり、なくしたりしてしまうかもしれません。掃除機が調子悪くなったら、その原因を推理しなければならないし、そもそも大切な実験機器が動いているときに、掃除機をかけてノイズを発生させたり電源のブレーカーを飛ばす恐れはないか、といったことにまで気を配るには物理(電気)の素養も必要です。

 だからといって、大学で「掃除の仕方」という講義と実習を行うというのはバカげた話だし、実際にそんなカリキュラムは聞いたことがありません。しかし、飛行機の操縦という、厳しい訓練の必要な仕事と、部屋の掃除という、一見誰でもできそうな仕事の間に、はたして本質的な差はあるのでしょうか。人間のトータルの能力が発揮されると言う点では同じであり、それはこの2つの仕事だけではなく、世の中のあらゆる仕事がそうではないでしょうか。

 そう考えると、大切なのは、人間としてトータルに成長することだということがわかります。その中で、大学で習得すべきことのひとつは、「ものごとの捉え方」という、知的なバックボーンです。それによって知的に強靱になることが大切なのです。

2006/11/26追記 茂木健一郎も似たようなことを言ってます:
「一芸」に秀でるためには「総合力」が必要
... "才能こそが大事だと思われている分野においてさえ、実は背後にある総合的な人間力がなければ、本当にオリジナルなことや、一流になることができないというのが、大事な視点だと感じました。我々の仕事の現場でも常に感じることですが、「仕事ができる」というのは総合的な人間力のたまものです。"
"こうした視点は、今後の教育のあり方を考える上でも重要なことです。いま、教育課程で英才教育をどうするか、あるいは大学の教養課程をどうするかなどが議論されています。こうした議論ともからんでくる問題です。"